時空を超えてー春男の雑記ー72 いかづち
◆「大君は神にしませば 雨雲の雷の上に 廬せるかも」
この歌は万葉集にある、柿本人麿呂のおおぎみ讃美の一首で、持統天皇が雷の丘に立たれたのを詠んだ余りにも有名な歌である。
◆明治の改革期に新興財団三井の創建に功のあった益田孝は、茶名を鈍翁と言った。俗に言う八宗兼学で何でも良く知っていた。特に有名なのは、奥州の元大名家佐竹氏より出た三十六歌仙絵巻を切断して好事家に分けた事である。
◆この人の持っていた志野茶碗に銘「雷」(いかづち)がある。口の大きさ十四、五で並の寸法だが、十以上に割れている。その割れ目を漆でステンドグラスの様につないで修復してある。本来おとなしい志野に赤茶色、溜色であろうか、この漆の継ぎ目地は一転して豪快そのものに見え、成程稲妻に見えるのだ。よく名付けたものである。後にこの歌の箱書のある茶椀雷は、関西財界の雄、耳庵こと松永安左衛門へと移って行くのである。
◆鈍扇に師事した人に即扇がいる。この人が姫路の酒井家より譲り受けた茶碗に「雪峯」がある。これも焼いた時に出来た大きな火割れに金と漆でつくろいがしてある。鷹ヶ峯に住んだ本阿弥光悦の作であるが、その漆のつくろいが景色として豪放磊楽な芸術的気質が感じられると言う。桂米朝の「はてなの茶碗」のはなしにも一寸似通った、例え傷ものでも良いと言えばなんでも良いのだろうか。但し吾々の家で表の硝子戸が割れたからと言って、割れ目にセロテープを貼っても「いかづち」所か貧乏くさく見えて、シャレにもならない。
◆一時、永仁の壺事件と言うのが新聞を賑わした事がある。鎌倉時代製作の重要文化財と認定されたのは良いが、あっちこっちからそれは私も持ってまっせと言う声が上がった。偽せ物の方が本物より良いのではないかなんて言うのが出て来て、困ったのは文部省の技官の方々であった。そして偽永仁の壺の作者として加藤唐九郎と言う異色の陶芸家が出てくる。
◆白洲正子と唐九郎は大変懇意であり、それだけに遠慮会釈なくこてんぱんに書いている。白洲も良家の出身でこわいものなしの人である。「大体唐九郎さんは永仁の壺なんてものを造るから世間から外されたが、白山神社で本物を見たが、騙されても仕方がないと思う程出来が良かった。世間の人も良いものは良いと認めなきゃ」と言っている。
◆そして晩年の「紫匂」に言及している。誰かが紫匂なんて名前を付けたから飛ぶ様に売れた。唐九郎の名前が売れているから、目の無い客は飛びついて買っていく。「こんな物作らなくてもあんたはもっと良いものが作れるのだからと言ってもウフフと笑っていただけで、名前を惜しむなんて気は全然無かった」と白洲は書いている。世の中なんて何がどうなんだろか・・・。