時空を超えてー木々高太郎の雑記ー㊴風土記(一)
◆和銅6年、奈良時代である。元明天皇は畿内七道に勅した「布告」を出した。大和朝廷としては、
全国の情勢を具体的に掴んでいなかったのである。ある国ではその土地の有力者を国の造に任命し、
又ある国へは、大和朝廷から、国の司(つかさ)即ち地方長官を派遣してそれらの人に次の様に命じた。
◆(一)その国の名、郡の名、里の名前には好い名前を付けなさい=これはなんと素晴らしい事ではないか。
新しい国造りの気持ちが脈々と伝わってくる指令である。今でも新しい住宅団地が出来ると、そこに、希望が丘とか、
美加の里とか、夢のある街、あるいは美しい街を連想する様な名前を付けて売り出されるのだが、今を去る千三百年前、
国造りの情熱に燃える大和朝廷は、全国に好い名前、良いキャッチフレーズを付けなさいと言う布告を出したのである。
◆(二)その国で産する物を書き出しなさい=原文によれば、銀(しろがね)・銅(あかがね)・彩色(いろどり)
・草木・禽(とり)・獣(けもの)・魚・虫等を書き出しなさいとある。
◆(三)土地の肥沃状態=これは風土記を読んでみると殆どが中の上として恐らく良い土地と誇りたいのである。
然し上と書けば課税がきついと言う事だ。そして二つ目の産物に関しても、大体生産性は良いのだが、飢餓、干ばつ等
の天候不順の時は不作になると書いて、その報告書に逃げ道をこしらえてある。昔も今も少しも変わらないという処が
面白い。
◆(四)山川原野の由来を書きなさい=ここにはその地方で語り継がれている古老の話が述べられている。近畿では品太別
の命、応神天皇又は仁徳天皇の治績に依る名前が多い。これも中央大和政権に対するおもねりであろう。
◆例えば播磨の国揖保郡にある大見山に就いて言うなれば、品太の天皇がこの山の嶺に登って遠くの国を見渡して国見の儀式
をした。だから大見と言うのである。そして天皇がお立ちになった所には今もどっしりと巨石がある。高さ一米、長さ十米、
巾六米である。御丁寧にその石の表面には、ところどころの窪んだ足跡がある。だからこれを御沓の所と言う。
◆又品太の天皇が丘に登って国見をされたから御立岡と言う。こうなれば何でもありのこじつけ次第、昔も今も権力指向
と言うか権力におもねる姿勢は変わらない様である。然し和銅六年春、全国に発令された国郡郷の名は好き名を付けよと
言う、希望に燃えた人民指向の勅もぐりっと一回りして返って来た時は、面白くもおかしくもない上向指向の名前となって
帰ってくるのだから千年たっても人間と言うのは余り変わらないようだ。
[風土記文学館より]
平成10年1月20日