時空を越えてー春男の雑記ー56 わがさだめして 住吉(すみのえ)の

◆天平時代に万葉集は作られた。今より千二百年も前の事であるから、学者は勿論素人の私達にも分からない事が一杯ある。

◆四千五百首の大半は庶民の詠んだ歌だと云うのだが、当時歌なんて学問的な素地が、奈良の都あたりでは兎も角、常陸の国の庶民等にあったのだろうか。どうしてそれを聞きとり集めたのか、考えれば考える程分からないのだ。

◆そして万葉集の原文は漢字で、音読みには假名の様に表記しているため、万葉集は二百年程経った平安時代には誰にも読めなくなってしまっていた。貴重な文献としてお庫入りし、再び陽の目を見るのは水戸光圀さんの時代になってからである。

◆これに詩人の大岡信氏は例を挙げて万葉集にへこたれた説明を書いている。

“標結ひて定めてし 住吉の浜の小松は 後もわが松“巻三

この歌の初めの方が原文で“印結而  我定義之  住吉乃 “とある。義之に皆困ってしまう。分からないのだ。

◆然し江戸前期の学僧契沖、後の加茂真淵を経て本居宣長が解明する。義之をテシと読むのは、王義之が勝れた書家(手師と云う)であったからテシと読むと言うのだからまるで推理小説である。この王義之という書家は、四世紀の初めの六朝時代の人である。唐太宗は義之の書を集め、盛んに臨書をさせたうえ本物は全部墓へ持って行ってしまった。他人には絶対渡さないと言うのだからすさまじい。

◆永和九年“歳在癸丑“に始まる蘭亭序は余りにも有名である。唐太宗は欧陽詢にも蘭亭序を臨書させている。日本では奈良の正倉院に、光明皇后が臨書した事で有名な楽毅論が残されている。

◆今月の芸術新潮に書家石川九揚氏が、義之の事を色々書いているのだが、とりわけ面白いと思ったのは、私達が子供の頃習字を習う場合、先ず楷書を習い、次に行書、草書と進んでいくのだが、この人曰く、書の歴史では篆書や隷書等、石に掘られた書と、草書や行書の様に紙に書かれる書と二つの大きな流れに分かれていたのを完成させた最後の大書体が楷書だと言うのだから、吾々の常識は非常識、驚く外はない。

◆以前住友銀行の看板字は伊東東海と言う書家の字であったが、今は何故だか活字にしている。私はこの字が好きだったので伝を求めて店の看板を書いてもらった。村上三鳴師も好きであるが、今は四つ橋交差点の旧山本建材跡にある中国銀行の看板字が好きである。

◆流石、文字の国中国、この大らかな書体をあきる事なく眺めていると、その後にある中国の大きさを、いやがうえにも感じさせられるのである。

(平成10年10月20日)