時空を超えてー木々高太郎の雑記ー⑫牧谿(上)

◆何故か今、牧谿である。たまたまテレビの日曜美術館をみていて、東京の五島美術館で牧谿展が開催されているのを知り、図録を取り寄せた。続いて芸術新潮が牧谿特集を出したので早々に入手し正月休みに読み耽った。

◆元の初期の禅僧牧谿の絵は八百年位前、蜀に渡っていた禅宗の修行僧に依って主に鎌倉の禅寺にもたらされた。牧谿は禅宗の僧侶で余技として絵を書いていて、その水準はかなり高かったのだが中国では認められず、絵も残っていないし完全に黙視されている。

◆日本に於いては水墨画としては画期的な物として高く評価され、その後の日本絵画の発展に多大な影響を与えている。その点に於ける牧谿の存在価値がある。当然、当時の権力者であった足利将軍の下に集まり、北山・東山御物として伝承されていくのだが、権力と財力に翻弄されて数奇な運命をたどるのである。

◆面白い事に八代将軍吉宗は絵が大好きで瀟湘八景八点を集めようとしたが六点しか集まらず、あと二点は御用絵師に書かせて悦に入っていたと言う。

◆以来三百年、恐らく一般庶民には縁のない大名物とされて夫々の所に秘蔵され一堂に会する等と言う事は夢の又夢で、開催した五島美術館長もラッキーであるとしか言い様がないと語ってりう。

◆作品が七百年と古い上に伝承が明確であると言うのが絶対的な強み価値である。当然入場者も予想の倍で、図録さえも品切れで増刷のため暫く待って欲しいとの事であった。

◆私が図録に執念をもったのは、何点かの絵は美術書では見られるが、この様な牧谿の図録は初めてで、是非入手したいと思った。

◆牧谿の最大の傑作とされているのは、国宝観音猿鶴図で京都の大徳寺に秘蔵されている。元々は足利幕府から今川義元に送られ、後に今川義元の軍師であった大原宗孕と言う人の手に渡った。この人は京都妙心寺三十五世の管長である。時は室町末期、師は縁の深い妙心寺と大徳寺に財産を遺贈しようと思い、先ず妙心寺に牧谿の観音猿鶴図三幅一対か銭五十貫文のどちらかを取りなさいと言った。丁度山門建立を念じていた妙心寺はお金の方を取ったので三幅は大徳寺に行った。それから五百年、山門と絵は夫々の寺に何をもたらしたのであろうか。

◆その後京都では「妙心寺のそろばんづら、大徳寺の茶づら」と言われたが言い得て妙である。そしてその後大徳寺の山門を一家建立した宗易。そしてその後もたらされた不遇な出来事は唯単に積善の家に余慶有りとは云えない。