時空を超えてー春男の雑記ー105 入お粥

◆大阪落語に「堀川」と言うのがある。長屋の大工職人の朝食が語られている。夫婦と男の子、お爺さんの四人家族である。働き者の女房おまさは、入り口の外へ盥を出して道の方を向いて洗濯の余念がない。お爺は子供の漬物をくわえて子供を泣かしてしまう。大工は、「お爺さん何をしなはんねん」「おまさも今洗濯せんでも子供を見たれ」「おれの弁当はよ詰めてくれ」と賑やかな長屋の朝の一時が描写されている。実際江戸時代は皆どんな暮らしをしていたのか、幸い手許に渡辺忠司さんが「すみのえ」に書いておられるのがあるのでご披露したい。

◆庶民は大体朝食はお粥であった。戦前までは私の処でも、入お粥と言って俗に言う茶粥であった。前の晩に大きい茶瓶にお茶を沸かしておき、残り御飯とで茶粥を炊く大和の茶粥というやつで、それはそれなりに美味しい食べ飽きのしないものである。別に御飯は御飯で朝炊いているのだが、商家ではぬく御飯を食べるのはもったいないと言うて、冷御飯にしてからどこの家でも食べた様だ。暖かい御飯だと食べ過ぎると言うのも一つの理由である。

◆昼は御飯に何かおかずを付けて、夕食はお茶漬けと言うのが大方の様である。ここに大坂奉行の久須美と言う人の日記がある。彼は日記魔で毎日つけていて、当然食べたものも克明に付けていた。それによると安政二年の六月八日、先ずは朝はかますとある。之は干物と思われる。それに汁と漬物の沢庵。汁には茄子が入っていたと言うから恐らく味噌汁と思われる。それに御飯は四杯。大食である。昼は八杯豆腐と言って、豆腐にかける汁が水と酒と醤油を四対二対ニに混ぜたのをかけて食べる。今はいくら大阪でもこんなのは残っていない。それから沢庵。御飯は麦飯で矢張り四杯食べている。夕食は湯豆腐と鰻。酒を一合飲んで飯を三杯食べている。大坂の町奉行と言えば司法行政の長で、好みの問題もあるだろうが大体こんな様である。

◆然し当時でも江戸の方から外食産業の流れが押し寄せて来るのだ。何故外食産業が発達したかと言うと、江戸では度重なる大火、地震の復興に大工や土木の職人が入り込んで来た。独り者の彼等はどうしても外食を必要としたし、また、失火を恐れる役人は、家の中で火を使うのを禁じたので屋台が繁盛する。その流れが大坂の方へも来た様だ。扱っているものは、にぎりずし、そば、天麩羅、鰻である。これらは庶民に受けて発展していくのだ。江戸時代や戦前の私等の食生活は一部の人を除き、この程度であった。今は不景気とは言え本当に恵まれていると言わねばならない様だ。

(平成12年12月5日)