時空を超えてー春男の雑記ー116 落花深き処 南朝をとく

◆元弘三年と言えば今から六百七十年前である。その三月、後醍醐天皇は二ヶ月後に起こる元弘の乱を予知する由も無く、女院や百官を率いて当時絶大な勢力を誇っていた西園寺氏の邸へ花見にと出かける。西園寺邸では三日にわたって饗宴が広げられ、この花見の宴の三日目の様子が増鏡に出ている。

◆夕闇が迫り、満開の桜花の間にすでに夕陽が落ちかかり、一方山の鳥達は声を惜しまず啼きたてている。主賓であられる後醍醐天皇も興に乗って自ら笛を奏された。舞われる曲は「蘭陵王」である。この曲は中国北斎の美貌の猛蒋蘭陵王長恭が、自分の顔が優しいので士気が上がらないのではと憂いて、勇猛な龍の化身の様な面を付けて戦に臨んだという事に由来する武の舞である。

◆そこへ絵の様に現れたのは、北畠親房の一子、宰相中将の位を持つ顕家である。未だ十四歳の弱冠なれば当然面は付けず天冠をつけ、朱房が顔にかかり、見る者を陶然とさせる美貌と凛々しさであった。舞楽の名曲蘭陵王は、時の天皇の主笛と宰相に依って目出度く舞い納められた。

◆続いて今で言う処のアンコールで、雅楽の場合高貴な方の前で舞った時はその日の筆頭者に花として練絹を賜るのだが、増鏡に依れば顕家は、式楽の一曲と言う舞を舞い天皇からの紅梅の練絹二反を、前の関白二条道家から跪いている顕家の肩へ掛けて貰うのである。誠に華々しい公達ぶりで、顕家としては生涯の中で一番晴れがましい時であった。

◆建武中興の後、顕家は鎮守府将軍として多賀城へと向かった。足利尊氏の反乱により京都へ攻め上る様に天皇より命を受けた顕家は、奈良の戦で敗北し、摂津河内和泉一帯を戦場として尊氏の執事高師直軍と熾烈な戦いを展開し、やがて顕家は最後の時を迎えるのである。顕家が戦死したのは阿倍野の北畠神社のある処となっているが、戦績の申告をする軍忠状が今も多く残っている。その一つ「田代顕綱軍忠状には去る五月堺浦に於いて奥州前国司顕家卿以下の御敵、石津において障をとり二十二日合戦の場において討ち取った」と上申している。

◆前記の西園寺家の花見で蘭陵王を舞って時の帝より綬を賜ってより僅か五年、華々しかったにしても余りにも短い生命であった。一人の権力欲の深い後醍醐天皇により、周りの人の運命は次から次へと変わっていく。建武中興で勢力を得た北畠一門は中央から北陸の金ヶ崎城へと追われて行くのだが、自分の子供の護良親王でさえ鎌倉へと追いやり、ここで親王は命を絶たれるのである。この様な天皇は本当にハタ迷惑である。近世では東条さんにヒットラーさんがハタ迷惑な人の部類に入るが、これからの時代には、こんな人は二度と出て来ないだろう。

◆何にしても権謀術策の世界も何百年の間に浄化されて次に掲げる頼山陽の詩の世界となる様だ。

古陵の松柏 天瓢に吼ゆ

山寺尋春 春寂寥

眉雪の老僧時に掃くを止め

落花深き処南朝をとく

関西学院大学教授 加地宏江先生 講演より

(平成13年5月20日)