時空を超えてー春男の雑記ー125 四天王寺
◆9月11日の夜、テレビが大変派手に、乗っ取った飛行機がNYの高層ビル突っ込んで自爆すると言う六十年前にどこかがやっていた特攻隊そこのけの事を報道し、今頃そんな国があるのかと心底驚いた。然し、ヤラレた方ブッシュ大統領は、之は既にテロではなく完全な今の時代の戦争あると言っている。確かにそうかも知れないが私のこれから書こうとしているのは千四百前戦いの話である。
◆欽明天皇の時代、百済の聖明王は大好きな大和朝廷に貢物として何が良かろうかと苦心した上で仏教と言う新しい文化を日本に贈った。そしてそれには仏教上の最も大事な三宝が付けられていた。三宝とは俗に「仏法僧」と言われる仏像、お経、及び僧侶である。当然僧侶は百済の高僧だろうし経典は金字で書いた美しいお経で、仏像は金色に輝く、見た事も無い素晴らしい仏さんだった。
◆然し日本の国ではこの新しい教えを受け入れようとする蘇我一族と、ことごとく反対する物部一族に二分されるのである。そして用明天皇の没後に二部族の戦いは本格化する。物部氏は大阪の八尾太子を中心とする部族で神武天皇の東征に従った大伴、物部と言う軍隊を司る部族である為、大軍を集めて戦い、かかっていった蘇我氏と他の連合軍は勝期を掴むどころか反対に敗色濃くなりちりじりに追い払われる破目になる。ここで蘇我の馬子と厩戸の王子(聖徳太子)は仏の守護神である四天王に勝利の祈願をし、戦勝の暁には寺院を建立してお礼を申し上げると祈るのである。
◆ここに出てくる四天王とは天竺の須弥山に住み東方を護る持国天、南方の守護神増長天、西方の守護神広目天、北方を護る多聞天の四天王である。この中で我々に一番馴染みの深いのは多聞天で、普通毘沙門天とも言い、近くは信貴山の御本尊である。太子が大和から八尾の戦場に向かう途中、山中の岩上に四天王の代表的な神格である戦の神毘沙門天(多聞天)が現れ戦勝の秘法と六目の鏑矢を太子に授けたと言う。
◆四天王に祈ったにも拘らず、蘇我軍は散々に追い散らされ、太子も八尾太子の大勝軍寺の所まで逃れて来た。太子が椋の大木の前まで来ると、幹が二つに裂け空洞ができ、太子がそこへ飛び込むと幹は元の様に閉じて太子を隠し、敵兵が引き上げると幹は又開いた。この様な時に一つの事柄が戦況を一変させるのだ。部下の迹見の赤祷が射掛け矢がそれまで樹の上から散々蘇我軍をなやませた敵の大将物部の守屋の背に深々と刺さり、蘇我・太子軍は勝利を収めたのである。
◆その後推古元年になにわの荒陵に四天王寺は建立される。その時新羅の王から仏舎利、金塔等が贈られ、四天王寺は浄土信仰の降盛と共に浄土の入り口と思われる様になった。お彼岸には西門の鳥居の中心にお日様が沈んで行くのだ。そして人々は此処こそ浄土の入り口であると合掌するのである。
舞台講彼岸会の挨拶より
(平成13年10月5日)

