時空を超えてー春男の雑記ー129 土手八丁
◆落語の「舟徳」に出てくる、親から勘当された大店の極楽息子徳蔵は、船宿の二階で居候を決め込んでいる。話はここから始まる。
◆「世の中が暮れて廓は昼になり」吉原は不夜城を誇っていた。また「大門が閉まると箱が一つ開き」と言う江戸時代には、毎日芝居に千両、吉原に千両、魚河岸に千両落ちると言われていた。吉原を買い切って豪遊する事を大門閉めると言うが、それには千両箱が一つ要るわけだ。話では紀国屋文左衛門が買い切ったそうだが何とも豪気なものである。
◆それはさておき、吉原通いの猪牙舟の話にいこう。元々房総より江戸へ鮮魚を運ぶのに造られたこの舟は薬研形になっており、舳が反り返っているので不安定ではあるが、水切りは大変良く、改良されて吉原通いの遊び舟になっていく。船賃は、柳橋から山谷堀まで三十町(三、三Km)で一般は片道百四十八文である。猪牙舟が軽快に早く進むのが取りえだから屋根も無く、舟の中は狭いので大勢は乗れない。この舟は乗り方が難しく三人乗る時は、舳の一人は後ろ向きに、あとの二人は並んで乗る。一人乗るのが一番難しく、これが一人前になれば遊蕩の方も卒業と言われ、「舟の女房客のかじをとり」と女将に見送られて大川へ出て行くのである。
◆舟宿も中々繁昌した様で、時間待ちに柳橋や山谷堀から芸者を呼んで一寸時間かせぎしてから程よく酔って出かける客もあった。また舟宿は遊客の送迎のみならず、中宿であった。上野浅草寺の僧が姿を医者に改めたり、お店の旦那や番頭も店から着てきた縞の木綿の着物を脱いで、舟宿に預けてある渋い外出着に着替えたのである。また、遊女から客へ送る天紅の文などは、直接客に送るわけにもいかないので、ここが橋渡しをしたのである。この様にして猪牙舟は、道楽息子が利用したと言う事から一名勘当舟ともいわれた。言い得て妙である。
◆面白いのは大門の手前の土手八丁である。一本道だし、道幅は狭い。当然逢いたくない人に逢うわけである。「野暮なこと何処へお出でと土手で言い」「土手で逢い今は何をかつつむべき」。次に土手で親父に遭ったら之は具合が悪い。親父の方でも具合が悪かろう。「天のなす処親父と土手で逢い。」一番具合の悪いのは女房に逢う事である。「女房は土手のあたりで髪がとけ」こう言う女房に出逢えばその場で去り状を書かせられかねない「土手の真中で去り状を書けと言う」
◆江戸時代離縁状は男の方が書いたのである。だから公衆の面前で去り状を書けと言われているのを見ている方も他人事ではないのだ。葬式のあと吉原で友人んに逢うのもバツの悪い事である。「この仏様もお好きでなと土手で言い」と言う様な事になる。土手を無事に過ぎると衣紋坂。このあと五十間で大門となる。「極楽とこの世の間が五十間」・・・・お疲れ様と言う処である。
(平成13年12月5日)

