時空を超えてー春男の雑記ー86 倉田百三著「出家とその弟子」より

◆昭和の初め、私の子供の頃は、どこの家でも夕食が済むと炬燵に入れるタドンをいこしていた。炬燵は櫓炬燵が多く、座布団の様な小さな布団を背負っていた。寝床は炬燵を中心にアトサシに布団が敷かれるのである。家中の暖炉は今と違って大きい家でも小さい家でも瀬戸物火鉢が一つ、それに茶瓶が懸っている丈だから寒いと言ってもどうしょうもない。

◆風呂上りのぬくもった身体で一気に寝るのだがたまに寝そびれる事もある。十一時を過ぎるとゴトン、ゴトンと音をたてて行き交う市電の数も少なくなり、終電車が行ってしまうと今と違って、車のない昔は何の音もしない。シンシンとした静けさと寒さの中に町中が閉じ込められて、時計の音だけがカッチン、カッチンと聞こえる。すると、下水にいると言われる
「まめだ」のポンポンと腹づつみを打つ音が聞こえてくる。それはかすかな音なのだが、まめだの腹づつみとしか考えられなかったし、皆そうだと言っていた。

◆冬の北国も寒い、シンシンと雪の降る夜更け、北陸に新しい仏の教えを広め様とする親鸞は弟子の左衛門とその子唯円と劇的な出会いをする。師匠と在家の弟子は、お互いの悩みの中に、余りにも多い共通点に驚くのである。

◆左衛門は主家を追われて百姓となったのだが、甘い言葉にのせられて商売で損をさせられ、うまい事を言って借りられていった金は返らない乍りか、催促すると囚業だと言いふらされ、子供までいじめられる。この世の中で善を行っていたのでは自分が成り立たない、心は強く、悪人にならなければ生きていけないのではないかと親鸞に訴えるのである。

◆親鸞は「人間は業と言うものに左右されて考えられない様な極悪な罪を犯してしまうのだ。貴男は生きる為とはいえ、無理に悪人になろうとしても、根が善人な貴男には無理な事で苦しむだけだ。人間の魂は本来善を慕うのが自然だが、宿業の力に妨げられて悪に入るのだ。自然にまかすより仕方がないのだ」と言う。左衛門はそんな事をしていたら渡世が出来なくなるのではと一番心配な事を尋ねるのだが答は明解で現代にも通じるものであった。

◆親鸞は「渡世が出来ない方が本当なのだ。善良な人は貧乏になるのが当然だ。貴男は自然に貧しくなるなら仕方がないから貧しくなるとよい。人間はどの様にしてでも暮らせるのだ。お経の中では韋駄天が三界を駆け回って仏の子の衣食を集めて供養すると書いてある。お釈迦様も托鉢されたし、私も御覧の様に行脚しているが、今日まで生きてきた。だから人は善人、悪人どんな形でも生きていける。救いは「極重悪人唯称仏」と念仏を唱える事に依って救われるのだ」と答えた。

◆この辺のところで吾々商売する人間が利益を得る事が悪業につながるのかどうか・・・余り儲けない方が良いと言っているのは事実が、商売人にとって「儲けることが悪」とすれば、吾々はどうして生きてゆくべきであろうか。 

(平成12年2月5日)