時空を超えてー木々高太郎の雑記ー⑥きく
◆今日は待ちに待った重陽の節句である。加古の里に住む左内は、遠くに出雲へ下った義兄の宗右エ門が必ず帰ってくると約束した日が今日なので、朝から落ち着かなかった。秋の空、冷えた空気に庭の菊の花の香りが漂ってくる。日がら待ち暮らしたが宗右エ門は帰って来ない。あの律儀な彼が帰って来ない筈がない。左内は先方にも色々都合もある事だろうし・・・と云う老母を先に寝かしつけて、一人黙然と考え込んでいた。夜も更け早や月も山の端に入ってあたりも暗くなったので、左内も今は之までと立ち上がり庭を見た。その時左内の目に風に吹き送られる様に人の姿がうつり、不思議に思ってよく見ると宗右エ門だった。
◆宗右エ門は左内に「私はこの世の人間ではない穢れた死霊の身が人の姿を借りて来たのだ」と云い、「出雲で尼子家のお家騒動に巻き込まれて城中に囚われてしまったのだが、今日は貴男と逢う約束の日、生身では百里の途は一日では歩けないので死んで魂魄となれば一日克く千里を征くというので、自刃してここまでやって来た。私は貴男との約束を守れたら死んでも惜しくない」と語った。
◆以上は皆さんご存知の上田秋成の”菊花の契り”のあらましである。大阪商人の家に生まれた秋成は、町の懐徳堂で学ぶのだが放湯児でもあり、しまいには家を潰してしまう。しかしその間に世の中の裏面をよく見たようで、菊花の契りでは田舎学者の流行らない左内と宗右エ門は軍学者として大名家に抱えらるのだが、正義感一本槍では周囲とはなじまず、この二人が偶然にも一緒になり義兄弟の約束をするのだ。
◆秋成は男同士の約束に生命を懸ける土を描き配するに重陽の季節と庭の垣根に馨る菊の花を持ってきている。そしてそう云う舞台設定で男の美学や男の爽やかさを歌い上げている。三題咄めくが、秋爽、男、菊の花、それにどうしても加えたいのが酒である。
◆松山に住む漱石の処へ子規が尋ねて来て居候となる。漱石はここで俳句にのめり込むのである。子規は数ヶ月して東京へ帰るのだが、漱石は餞に次の句を詠む。
御立ちやるか
お立ちやれ
新酒 菊の花
漱石
男の美学、別れ、酒、菊の花が美事に詠み込まれている。
(平成8年11月15日)