時空を超えてー木々高太郎の雑記ー⑬牧谿(下)
◆室町時代の応仁の乱を経て残った牧谿は当然権力の象徴としてもてはやされた。信長は、京都へ堺の宗悦、隆仙、天王寺屋宗及を呼んで茶会をした。先に述べた瀟湘八景の中の「洞庭秋月」を懸け、途中でその上に重ねて「帆帰之松」をかけた。普通の人には到底入手出来ない財物を、しきたりも何もあったものではない、唯強権を商人に誇示して服従さそうとしたのだ。この位時の最高位の人に評価されれば絵も以て瞑すべきだ。
◆瀟湘八景は、二巻の風景画を足利義満が一米強の巾に断ち懸物にしたと言い伝えられている。他に芙蓉図、対になっている蘿葡(らふく)、葡菁(ぶせい)図、柿、栗図等が習作絵巻物より断たれて夫々懸物とされたと伝えられている。この中で私は柿、栗の図が一番良い様に思う。
◆非常に荒いタッチで描かれた柿が六ケ所並んでいるが夫々墨の濃淡が違うのである。それに比べて精密に描かれた栗。相反する二点を一対として懸け並べると表装の色の取り合わせも素晴らしいと思い。
◆昔からこの柿図は茶人の評価が高かったのだが今回の五島美術館の図録には掲載されていない。どうもわからない。元々牧谿はアライと云うので中国では余り高い評価をされていないのである。敢てアライのを飲み込んで評価したのが我が国だから、今更アライからと柿図に冷淡になる事もあるまい。今ひとつ言うなら牧谿が渡来した頃は我が国にない斬新さが取り得であったが、今や永い年月は絵も古びて、古いという事を有難がらねばどうにもならない様だ。因みに牧谿を評価するのに伝承の古さ八十点、美術として二十点と云う人もいる。言わずもがなの事を言った様だ。
◆因みに昭和の始めに三十六歌仙が売り立に出た。五万円である。余りの大金に財界の大立物で茶人である増田鈍翁は有志をつのり入手した。そしてこれを切り三十六歌仙切として分けた。この方法は昔からよく用いられた。
(平成9年2月25日)