時空を超えてー木々高太郎の雑記ー㊱武蔵鐙

◆秀吉の小田原攻めの陣中、利休は夜遅く、部屋で独り、竹の花入に手を入れていた。長さ一尺、太さ三寸程、二つ節のほん手頃なものである。然し利休の思いは先日、秀吉の手で惨殺された愛弟子・山上宗二瓢庵の事にいってしまう。

◆宗二は利休と同じ堺の町衆だが、利休の愛した彼の豪快さと一徹さが災いしたのである。その運命の間の悪さを思う程、利休は我慢しきれなくなってくる。がばっと立ち上るや、自分自身に対するやり場のない腹立たしさに手に持った花入を庭の敷石にたたきつけるのである。

◆そのとき利休は、そこに宗二の幻影を見て庭に飛び下りるのだが懐かしい宗二の姿は既に無く、拾い上げた花入には二筋の雪割れが入っていた。利休は生涯の友でもあった弟子の姿を花入に見出して握りしめるのであった。

◆この花入は子供の小庵に譲るのだが、利休が庭に投げた時の雪割れから、三井寺園城寺の割れ鐘に引っかけて、園城寺と云う銘が小庵の手で裏に刻まれている。そして時の流れと共に点々とその行方を変えた園城寺は、最後には出雲の領主で茶人大名であった松平不味公の処に納まる。昭和になって、松平家から東京国立博物館に寄贈されている。

◆この花入には、小田原陣中の利休から、弟子であり、秀吉騎下の武将であった古田織部宛の手紙が添えられている。世に「武蔵鎧の文」と言う。手紙の初めの方には

むさしあぶみ
さすがに道の遠ければ
とはぬもゆかし
とふもうれしし

と歌っている。

◆因にむさしあぶみは、関東地方から西の海岸に近い処に生える多年草で花の形が鎧に似ているからこの名前があるが、当然ながら武将古田織部が秀吉の命に依り、関東遠征に出た乗馬の鎧にかけている。

◆そして文面には「あなたの行かれた関東には、すみだ川、つくば山、むさし野等々良い処が一杯あってうらやましい。私も病気が治ったので、山の方の家に移ったのですが、ふじ山だけで他に何も良いものが無く、唯辛棒して暮らしています。大阪の城も大方出来たので、秀吉公も還る事でしょう。吾々も小田原滞在は後しばらくの事と思います。何しろ旅先とは申し乍ら、おたがいにおいしいお茶を飲みたいものです。新茶も用意しております。利休」

◆利休より吉田織部への手紙「武蔵鎧」を読んで忙中閑ありの感が強いのだが、利休も翌年の天正19年に殺されている。利休の七哲の内四人程は不運の死を遂げているのだから、浮世を離れた茶人といえども、当時は中々生きにくい世の中だった様だ。

(平成9年11月25日)