時空を超えてー木々高太郎の雑記ー㊲"あぁ師走"人も鳥もどこへ行く
◆”何にこの師走の市に行くからす”
昔、新町ばし東詰北入る所に「ふじ長」の店があった。北隣が加藤メガネ店で、その隣が桧屋の木庄であった。御主人は、細い小柄な頭の毛の薄い人である。市の日は、番頭さん達は市電の早朝割引きの往復切符を確か五銭位で買うため早く出て行く。
◆木庄の大将は九時頃、着流しに黒い羽織を着て草履をペタペタ鳴らし乍ら、新町ばしの方へ行く、この人の面白いくせで、橋の上で一寸思案をしてから、スタスタと店へ戻って来て、又出かけるのだ。店の人にお宅の大将何時も戻ってくるが何しに戻ってくるの?と聞いたら、「おってや」と言うて、又出ていくとの事である。何の事や、その後大将のアダ名は「おってや」になった。
◆12月に入ると結構寒いので、仕事にかかる前は大抵、わら肩を燃やしてトンドをした。炭俵のカラになったのを二つ三つ差し入れがあると有難かった。又その頃地方送りの荷物の発送は、馬力屋と常庸の仲間がいた。仲間の金やんは力持ちで、ケアキの一間の本巾の盤を1人で背負って、馬力の荷台から店の土間へ入れた。これは今では考えられない位、物凄い力持ちである。
◆11時頃になると、やり手のおばはんに引き連れられた新町のお女郎さん達が、博労町の難波神社の稲荷さんへお参りに行く。運動がてらの日課である。先頭が橋の角を曲がってこちらへ向いてくると、何故か番頭さん達は消えて了う。
◆私達には時々配達の仕事があった。横付自転車である。お客さんとの商売が済むと、番頭さんは配達をする私達に、なんぼかの運賃をやってくれと必ず言ってくれた。これは本当に有難かった。十三大橋の北詰の餅屋、安堂寺橋西詰にあった焼餅屋が、何であんなに美味しかったのか、どうしてもわからない。
◆助右ヱ門橋の北詰には毎晩夜鳴きうどんが出ていた。赤い灯が見えると辛抱出来ず出かけて行くと、夜鳴きの屋台車を囲んで皆さんお揃いであった。然し昼と違って、商売を離れ、店と関係なしで夫々がお友達であった。そして十三銭のうどんは美味しかった。
◆今皆さんは、経験もした事もない不景気に愕然としておられる。これは材木屋だけではなく、免許制度に守られた銀行、証券会社がなす術なくぼう然としているのだ。私達も夜鳴きうどんが美味しいと言う生活を見据えてゆくのであれば、一寸も怖い事はない。戦前も戦後もそんな生活をしてきたのだから。
◆たまたま消費は美徳という様なスローガンの時代があり、そして次に価格破壊がやって来て、それからタイムスリップして五、六十年前に戻った丈の事、直き人間って馴れるから、決して心配無用である。
◆材木屋なんて、落ちて死ぬ程高い所に居た事ないのだから、言い変えれば余り良い目をした事ないのだから、いくら不景気が来ても、心配する事は何も無いと思うのだが・・・。
(平成9年12月15日)