時空を超えてー木々高太郎の雑記ー53 後の始末は誰がする
◆昔から法事は年寄仕事と言うが、然し真夏の法事はこたえる。家内と上着を着ていくかどうかで一悶着した後出かける。カンカン照りの道路を見ただけでうんざりする。これで折角の日曜もオジャンである。お供を買うのに手間どりニ十分程遅れて着いた。これも勘定の内で、長いお経はかなわないと云う気もあった。
◆処が先方の奥さんは「本日はお暑い折柄お出ましにくい処申し訳ありません。これで皆様お揃いになりましたので只今から勤めさせて頂きます」ときた。何も待っていてくれなくても良いのに、済んでいても文句なぞ云わないのにと思っていると、お寺さんは「私のお勤めは約四十五分かかりますので皆さん上衣を脱いで膝を崩して楽にして下さい」とのたもう。之ぞ法要かと腹をくくった。
◆真言宗ではナントカソワカ善哉善哉とやり出したら終りに近く”願以此供徳”と言うのが出るとおしまいである。次が法話であるがこのお寺さん大変良い事を云った。「人間五十を過ぎると何時お迎えがくるかわからないから皆さん身辺整理をしなさい。特に申し上げるなら、写真と着物である。これは後に残された子供達が一番困るんですよ」これは仲々良い事を聞いたもんだと思って帰って来たのだが・・・。
◆それから少したって家内が体調をくずし急に入院する事になった。こういう事になると娘の出番になり、女も四十を過ぎると所帯盛りは見事なもので、入院手続きから入院に要する所持品を揃えるなんてことは男の私が及ぶ処ではない。男なんて一緒に居ても、どこに何があるか全然わからないのである。
◆それは兎にも角無事一段落した後で娘は「ようこんなにしょうもないもんばかり貯め込んだもんや。元気になったらぼつぼつ始末をせにゃ」と云って帰った。家内は、私等は物をよう放らん時代に育ってるから仕様がない。死んだら皆放ってくれたら良いと言い切った。私の友達の古着屋さんに聞いた話では、今の若い夫婦は親が死んだらタンス丸ごといくらでも良いから買ってくれと言うそうである。
◆まあそれは良いとして私達男の世界は大変である。戦後貯め込んだものを始末する時機が各々の人にやって来た。自分の目の黒い内に、元気な内に一日も早くかからないといけない。ペナントレースではないが、自分のチームは自力優勝が出来るのか、他が落ちてくる事に依り優勝出来るのか甘い期待感や夢を持たないで、正しい見定めてやっていかないとどうにもならなくなる。中小企業がこれだけへたっている時に、先ず大儲けをしている大企業の税率を下げようと言っている様な政府は、私等に何もしてくれない。頼りになるのは自分だけである。時間は余り残されていません。自分で決断して実行しかありません。
(平成10年9月5日)