時空を超えてー木々高太郎の雑記ー54 思い煩う事勿れ

◆昭和の初め私の通っていた幼稚園は阿弥陀池のお寺の東側にあった。気儘者の私は幼稚園が大嫌いであった。毎朝一騒動あってから、なだめすかされてぼんさんの自転車の前に座布団をひいてもらいその上に乗せられ連れて行かれた。幼稚園へ行く条件は、昼の弁当にチョコレートのサンドイッチを買ってもらう事だった。それは五銭で蝋を引いた紙に包んであった。が、とにかく幼稚園はきらいであった。

◆昭和6、7年の頃だったが、母親が近所の人と世間話をしている時、そばで聞いていると必ず「不景気」と云う言葉が語られていた事が、私には未だに印象付けられている。そして、何処の家にも居候がいて、
大抵二階にひっそりと住んでいた。その頃は本当に不景気だったのだ。国内では食べていかれなくなった人達は移民として海外に出て行くのだが、ここに善良な自国民として平和に暮らしていた中国人を巻き込んで、そしてそれに係わった皆が不幸な始末を見た。

◆当時、満州へ渡った開拓団の人達は、永く続いた不景気に農村も都市も疲弊しきっていた中で新天地に活路を求めた。例えば東京の品川区にあった武蔵小山商店街商業組合では、街を挙げて参加したのである。その職種は仕立屋、呉服屋、八百屋、酒屋、菓子屋、豆腐屋、印刷屋、床屋等それこそ町中が参加した。営々と築いてきた店舗をたたみ、勤めを止めて参加した人は三百軒、一〇三九人と記録されている。商店街の理事長の文房具屋さんが団長となり、洋服屋の常任理事さんが副団長として出発したのである。

◆そしてこれらの人達は二十年八月に悲惨な終末を迎えるのであるが、私が言いたいのは、人々は現在の不況は昭和の初期の不況よりずっと悪いと言うのだが、果たしてそうであろうか。現在この不況の日本を見限り、後進国のベトナムやカンボジアへ移住しようと、いくら美辞麗句を並べて誘っても商店街の人達全員が店をたたんで参加する様な事は先ずあり得ない。

◆私は当時と比べてそう悪いとは思えないのだ。むしろ、夫々の人が自己の生活を顧みて、宣伝にあふられて無駄な事をしていないか反省する良い機会ではないかと思う。

◆ここへきて、金の値打ちはいよいよ出てくるのですから皆さん、無駄遣いはしない様に、借金王国のドルは絶対買わない様に、必ず下るのです。貯蓄に裏打ちされた円は必ず上がるのですから読み違えない様に。我々庶民には気色の良い景気風など吹いてきませんから、暑い寒いに対応出来る身体にして、夕焼けを見て美しいと思い、水溜まりに浮かぶ落葉に米国の画家ワイエスの絵を想い、ささやかな幸せの中にゆっくり暮らして下さい。

(平成10年9月20日)