時空を越えて-春男の雑記-57 おかげまいり
◆慶安太平記と云う芝居がある。御存知、由井正雪、槍の丸橋忠彌の反乱事件である。不景気のなか徳川幕府は苦しい財政改革の為、大名家取り潰しをやり続け、巷には浪人が氾濫するという素地の上に、この様な事件が起きたのである。
◆六十年周期で富士山が噴火した宝永、そして大飢饉の明和、天保と天変地異が四回あり、五回目は慶応三年で、世直し要求の表われとして起り、町や村を「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊りつつ歩いた。何れも末世思想的に、お伊勢参りが行われるのである。平素は年七十万人位の参詣人が五百万人になったと言う。
◆もともと“抜け参り”とは父母や主人の許可を得ずに家を飛び出し、ひしゃくとござ一枚を持って伊勢参りの郡に飛び込むのである。
多くは親元を離れて働く子守や、使い走りの少年少女達が先駆であった。そして彼等を一層奮い立たせたのが天から降ってくる
お伊勢さんの大麻札、そして聞いたという「天の声」であった。
◆そこでは神懸かり的な説話が語られ、云い広められて行くのである。抜け参りから帰って来た男に腹を立てた主人が刀を取る
や切り殺して、使用人にこれを遠くへ捨ててくる様に命じた。翌朝使用人は、その男が路地を歩いてやって来るのに出会す。
そして主人に命じられて昨日の死骸を見に行くのだが、そこには一滴の血も流れておらず、唯横に切り傷のあるお札箱が一つ
そこに置かれてあった。
◆今一つ宝永二年、京都一条通万年町の「小松」と云う店の少年長八は、子守で百文の給金をもらっていた。ある日突然子供を背負ったまま伊勢参りの郡に入って了った。九日間少年は赤子を背負ったままの旅を続け、伊勢神宮でお祓いを受け、ぐったりと死んだ赤子と家へ帰ってくるのだが、少年の背から降ろされた赤子はそこで息を吹き返すのである。
◆人々は神の軌跡を信ずるしかなかった。神宮参りのおかげ、幼い者への神の恵みと受け止めたのである。幼い子供達も交えて
親や主人の目を密かに逃れ、不思議な御利益に預る事を信じて、抜け参りの長い旅路を必死で辿ったもである。
◆『おかげでさ するりとさ ぬけたとさ』鉦、太鼓、笛、鼓等を手に手に持って、病気、旱魃(かんばつ)、洪水、嵐による不作、大火、地震等暗い村の状況を吹き飛ばす奇跡が、この抜け参り、おかげ参りから生まれる事を人々は幼い者と一緒に祈った。
◆祈りは遊びではない。江戸では強風下に大火起り、京都が大地震に見舞われた文政十三年は四百万人が伊勢を埋めた。神に頼るしかない人々の祈りであった。それから二百年経った平成十年、天候不順と不況に見舞われ、尚且、悪徳政治、不正官僚に毒された人々は何に祈るのであろうか。
(平成10年11月5日)