時空を越えてー春男の雑記ー69 眞平さん
◆店の前に自転車が止まった。「おんたいは?」「一寸出ていますが」「さよか、そんなら又」と帰って行った。この人の自転車は、細いタイヤの荷物台の小さいハイカラなヤツで、我々の乗っている様なタイヤの太い、荷物台の大きい頑丈な物ではなかった。いでたちはツィードで、背に大きくタックを取ったブレザーを着て、同じ様なハンチング、ズボンはニッカポッカ、足元は短靴に長い靴下をはいた、よく雑誌等に出ていたイギリスのウィンザー公の様なゴルフスタイルであった。勿論、こちらはそんな上品な英国紳士ではなかったが四角い大きな顔で、吾々にとってはどうにも怖いオッチャンであった。以上が現東洋木材新聞の創始者先々代島崎眞平氏のプロフィルである。
◆創刊六五周年記念で何か書く様に云われると当紙に関しては先図、眞平さんの強烈な印象と、未だに思い出されるのは「木材街記録」である。戦後25年3月より連載された、身近な店、身近な人物が毎号短い文章の中に的確に言い表わされ、次から次へと出てくるので之は面白かったし、随分話題にもなった。当時の紙面の横堀筋から少し書き出して皆さんと一緒に楽しみたい。
◆⭐︎志方平は一般建築材で一族が働く。コウ子母堂は甘貫目(75kg)
⭐︎水谷五銘木店法華の信心家、夫婦仲良く星から星へ働く・・・大阪の框家等の職商売の人が熱心に信心し、又朝早くより毎日夜なべして良く働いたのを端的に言い表わしている。
◆⭐︎浦山林業は閉店。祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す・・・。眞平さん中々学がある。因みに浦山の跡は銘木組合が買い取って鳥飼へ移るまで、ここで営業していた。
⭐︎今西平治さんは法華経ごりの直ぐい人で、奥様は大和西瓜とあるのだがどうもこの大和西瓜と言うのは分からない。あの世へ行ったら聞かにゃと思う。
◆竹内木材は賃挽の製材が大繁盛、気は長く心は丸く、腹立てず、勤は堅く、言葉少なし・・・。ここの処何か眞平さん言葉多く、褒めているのか何か筆をすすめている。
⭐︎冨士保の片山さんが世の中でうるさいものは、天井の鼠と税務職員だそうな・・・。之は勿論今も余り変らない様だ。
◆本紙も昭和九年創刊してより五年目の昭和十四年、聖戦遂行の為と称して企業合同という名目のために個人営業は廃止したのだから、その後十年位は先々代も随分苦労された事と思う。
◆然し現在の経済の急速な落ち込みによって、業界が櫛の歯が抜ける様に欠けていくのも之また大変な事節である。業界の旗手東洋木材新聞社の健闘を祈るのみだ。
(平成11年5月5日)