時空を超えてー春男の雑記ー80 説教節・信徳丸
◆八尾高安の信吉長者が観音に祈り、京都の清水寺の音羽の滝に打たれて男の子を授かった。仏の加護に依るものとして、名も信徳丸と名付けて慈しんだ。
◆九つともなれば、学問所信貴山の朝護孫女寺で学ぶ事となった。高安の長者の邸は山畑にあり、今ある玉祖神社の処も所領地であったから、信貴山はほん近くであった。
◆四天王寺では毎年旧の二月二十二日に聖霊会が行われた。当時、広大な寺領を持つ聖徳太子建立の四天王寺の法令は、奈良の東大寺におとらない四箇法要の型がとられ、それは盛大なものであった。
この日太子の御影は太子殿より六時堂に移され、堂前の石舞台では絢爛豪華な舞楽法要が未明から深夜まで行なわれた。
◆ここで法要舞楽の童舞に信吉長者の息子信徳丸が選ばれた。この場合、舞われるのは「迦陵頻」と言う天国の極楽の鳥を模した舞と、蝶の舞う様を模した「胡蝶」が舞われる。信徳丸は、胡蝶を舞い乍ら手に
持った桃の花を目の前にかざし、その間から桟敷にいる陰山の長者の姫、乙姫を見染めるのである。頭に「てんがん」を付け、緑の袍に蝶の羽を背中につけて、桃の花を手に凛々しく舞う長身の信徳丸に、桟敷
で見ていた乙姫は熱い視線を送るのだった。
◆信徳丸にとって、この辺までが最も幸福な時代で、このあとは奈落にころげ落ちる様に不幸になっていく。実の母に死に別れた信徳丸は、継母の呪詛に依って盲目となり、異例(ここではらい病か?)となって二目と見られない姿となり、父親にも疎まれて、家来の仲光に四天王寺に捨てられてしまうのである。仲光に抱きかかえられ馬背に乗せられた信徳丸は、高安から四天王寺へと向かうのだが、その道が今も俊徳道として残っている。
◆翌朝目を覚ました信徳丸は、呼べども仲光は居らず、枕元にある茶碗、杖、みの笠を手探りで確かめて捨てられた事を悟り嘆き悲しむ。絶望的になった信徳丸の前に観音様が現れ、熊野”湯の峯”へ行く事をすすめる。その教えに従って、一路熊野を指して一人旅する信徳丸は、貝塚の地で知らずに陰山の長者の邸へ入り込んでしまい、乙姫と再会するのである。やがて二人は京に上り、清水の観音様の御加護にとり呪詛が解け、継母が打った百三十五本の呪釘がばらりと落ちると嘘の様に目が見え、異例も直ったということである。
◆この話は四天王寺の施薬院、悲田院の徳を称え、清水の観音様、熊野大社の霊験のあらたかさ、また信貴山の学問所としての尊さを祈り込んで語る純愛物語で、仏の霊験あらたかな御加護を説き、人達に因果応報勧善懲悪を語っている。街道の辻や、村のお堂で聖や瞽女達が語る物語に、人々は苦しい現世を離れて一時の夢の世界へ逃避したのである。