時空を超えて~春男の雑記~111 ″岡田さん″の思い出
◆市電の上本町九丁目の停留所の前に昔はJOBKがあった。そこから省線桃谷駅の方へ下がる道を天神通りと言う。今タクシーに乗って天神通りなんて言っても恐らく知らないと思う。その通りを東へ、つまり警察病院の前という方が分かり易いのだが、そこに私と岡田さんのアジト「とみや」がある。間口は十尺位の小さい料理屋である。背の高い素人の様な女将が居て、料理も気が利いている。
◆去年の十二月は寒かった。午後からピシャピシャと冷たい雨が降っていた。ない事にこの日は私の方が早く着いた。程なく岡田さんがやって来た。濃紺の羅紗の様な縦縞の服を着ていた。昔の物であるが中々良い服である。いつか洋服屋が、今の機械は織が早くなって昔の様に生地のしっかりした織り込みが出来ず、目が詰まらないと言っていたのを思い出しながら岡田さんの洋服を眺めていた。
◆その晩は特に寒いと言う事もあって良く飲んだ。良く飲み、良く食べ、良くしゃべればこんな楽しい事はない。旬日に迫った正月の話等するうちに一月も二十日過ぎたらもう新年宴会も無いし、じゃあ有馬へでも行きましょうかとすぐ話が決まった。二人とも日は何日でも良いし、蛇足ながらその頃は旅館も半値である。だが、折角楽しみにしていた有馬は、岡田さんの腰痛の為に行けなくなってしまった。本人も随分残念がっていた様だ。
◆有馬へは、岡田さん、吉原さん、榎本さんと私の四人でよく行ったものだ。年寄りにとっては先ず大阪から近いと言うのが何よりだし、湯が良いし、どこも風呂が大きく立派にしつらえてある。そこで何遍か智太郎と言う芸者を呼んだことがある。随分良いお年だと思ったが、若い人では三味線が弾けないのでと言う。こちらもどなたも、人畜無害な人ばかりで文句を言う筋合いでもないのだが、「然し姐さん、せめてお年を」と言ったら「一杯です」と言う。「ええ?一体いくつの一杯?」と聞いたら七十だという話。こちらも年には不足は無い方ばかりで大笑いした。
◆何時か木材クラブの忘年会の帰りに、岡田さんに「いろは」へ正調博多節を聞きに行きましょうと誘われた。かなり遅い時間で岡田さんは大きい部屋が好きとのことで、よけい寂しい感じがしたのだが、いろはの様な大きい料亭も夜も更けて静まり返っていた。地方の姐さんの博多節で、若い子が踊っていた。いろはの窓の外を流れる道頓堀川の水の流れに浮くうたかたも、沈んでは浮き、浮いては沈むのだろうか川向かいの店のネオンがゆらゆらとゆらいでいた。岡田さんは、静かに酒を飲みながら聞き入っていた。岡田さんは、常に熱燗が好きだった。何故か聞く事なしに唯好きなんだなぁと思っていたのだが、若い頃北海道で働いていたと言うからその名残かも知れない。
◆それはそれとして、之で私は一遍飲みにいきましょうやと言う人が又一人減りました。心許して飲める友が・・・。心温かい人が・・・。