(考察)成年後見制度と日本人の家族感
私は市民後見人の活動などを通じて成年後見制度は、とても大切な制度だと思っています。
認知症などで判断能力が低下した方の権利を守り、財産を保全し、安心した生活を支えるために存在しています。
ただ、家族の立場で考えたとき、どうしても拭えない違和感があります。
例えば親の判断能力が低下して後見人をつけなくてはいけない自体が発生したとします。いわゆる法定後見のパターンです。専門職後見人が選任されると、親の預金や不動産の管理は後見人が担います。親の通帳など、全ての財産を専門職後見人に渡すイメージです。
施設への入所や介護サービスの契約など、身上保護についても後見人が中心となって判断していきます。
家族の意見が全く聞かれないわけではありませんが、後見人の裁量によるかと思います。最終的に法的な権限を持つのは後見人です。後見人の相談相手は家族より家庭裁判所のイメージです。
親と何十年も一緒に暮らしてきた子どもが、「この施設の方が母らしい」「父はこの家をとても大切にしていた」と思っても、その思いが法的な権限として反映されるわけではありません。
さらに、専門職後見人が選任されると、家族であっても親の財産状況を十分に把握できなくなるのが現状の運用かと思います。毎年、後見人が家庭裁判所に提出する後見事務報告書を家族には提出されません。法律上、家族に知らせる必要がないからです。そして後見人は職務をスムーズに行うためにも家族との接触は最低限しか行わないのが一般的な運用方法に思われます。
親のお金なのだから当然だ、という考え方もあります。民法は個人の財産権を尊重する法律です。
しかし、日本人の家族観は、本当にそこまで個人主義なのでしょうか。
例えば被後見人の家の売却についてです。祖先が築いた家や土地に対して家族ならではの想いや価値があります。
子どもの頃から暮らした実家。家族の思い出が詰まった建物。
それらは単なる「資産」ではありません。専門職後見人には知り得ないことがあるかもしれません。
もちろん、介護費用や生活費を確保するために売却が必要になることもあります。それは否定できません。しかし、「本人の財産だから合理的に処分する」という考え方だけでは語れないものが、家にはあります。
「家を次の世代へ受け継ぐ」という価値観まで、すべて失われてよいのでしょうか。
現代の民法では、生前に相続対策をせずに法定相続分で相続していくと不動産は細かく分かれ、維持できなくなったお屋敷や土地は売却されがちです。地域の歴史を見守ってきた立派な屋敷が姿を消し、細かな宅地やマンションへと変わっていく光景を目にすることも少なくありません。
法律としては合理的なのかもしれません。
しかし、それが日本人の家族の感覚や文化と一致しているのかと問われれば、私は疑問を感じます。日本にかつてあった家督制度的な考え方はまだ残っており、否定しなくてはいけないわけではないかと思います。
成年後見制度も同じです。制度として本人の権利を守ることは極めて重要です。
一方で、長年本人を支え、ともに人生を歩んできた家族が、財産管理や住まいの選択について「口を出しにくい存在」になってしまう現実には、違和感があります。
本人の権利を守ることと、家族の思いを尊重すること。この二つは、本来対立するものではないはずです。
私は、このような違和感こそが、成年後見制度が思うように普及しない理由の一つではないかと感じています。
制度を利用する前、多くの家族は「親の財産を守ってもらえる制度」「家族を助けてもらえる制度」というイメージを持っています。
しかし、実際には専門職後見人が選任されると、家族であっても財産管理や身上保護への関わり方は大きく変わります。親の財産状況を自由に把握できるわけではなく、不動産の売却や施設選びについても、家族の希望どおりに進むとは限りません。
もちろん、これは後見人が悪いのではありません。後見人は法律に従って、本人の利益のために職務を遂行しているのです。
問題は、制度の内容と、利用する家族が抱いているイメージとの間に大きな隔たりがあることではないでしょうか。
その隔たりを十分に知らないまま制度を利用し、「こんなはずではなかった」と戸惑い、家族と後見人との間に認識のずれや対立が生じるケースもあります。
だからこそ、成年後見制度を勧めるだけではなく、その制度によって家族の関わり方がどのように変わるのかまで丁寧に説明することが重要だと私は考えます。
本人の権利を守ることは、もちろん最優先です。その一方で、日本の家族観や、家族が長年積み重ねてきた想いにも目を向けた運用について議論する必要もあると感じています。

