時空を超えてー木々高太郎の雑記ー①おひがん
事務所ブログを盛り上げるために私の亡くなった祖父に登場してもらうことにしました。
週末は祖父、木々高太郎(ペンネーム)がかつて書いた雑記を載せようと思います。
簡単に祖父についてご紹介しましょう。
祖父、木々高太郎は1925年に生まれ、2019年に死去しました。
若いころは戦争に行きました。戦後は大阪の堀江という場所で材木屋を営んでいました。
また、祖父は雅楽を嗜んでおり、私が生まれた年にはアメリカに演奏旅行に行き、ニューヨークのカーネギーホールでも演奏したそうです。
私の中の祖父のイメージは商売人というよりは、いつも冗談を言って、店で笛の練習をしていて、お弟子さんに囲まれ、美味しいもの、お酒が好きな人という感じです。
祖父がある業界の新聞に載せていた雑記(1996年~2009年)を相続人の了解を得て、ここのブログに復活させていきたいと思います。
◆昔、聖徳太子は、八尾平野での物部氏との戦に際し、戦の勝利を広目・持国・多聞・増長の四神に祈念すると同時に、勝利の暁には堂宇のの建設を約束し、見事物部氏を破り、後年建立したのが四天王寺なのですが、何故か天王寺さんは聖徳太子をお祀りする行事の方が多い様です。
◆私の子供の頃は、市電を西門前で降りて、セメン菓子や釣鐘饅頭屋をキョロキョロ見ながら、ゴーンゴーンと鳴る引導鐘の音を聞きつつ境内にと入っていきます。ここの石の鳥居は高さ三〇尺、柱の直径三尺七寸と云うとてつもない大きいものです。今ですとこの程度のものはさほど驚く事はないのですが、何しろ七百年前に出来たということで重要文化財の指定を受けています。そしてここに掲げられた扁額は高さ五尺、巾三尺七寸のブロンズになっています。
◆ここに書かれているのは聖徳太子の詩と云いますか偈と云いますか、釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心の四句で、日本三大名筆の一人小野道風に依って書かれています。その大体の意味は、ここはお釈迦様の教えを伝える処で、極楽浄土の東門の中心に当るという事で、随分立派な大層なことで有難い極みです。勿論この鳥居は一般世界との結界、仕切りとなっていて、この中は極楽浄土と変りが無いと云う事です。
◆石舞台を左に見て少し行くと亀の井と云う井戸があります。この井戸の水は五重の塔の前にある金堂の下の大きな池から絶え間なく流れています。
◆流した経木は井戸の中をぐるりと廻ると、亀の口からしたたり落ちる水を慕う様に水の落ちる処へ集まります。係の人がお念仏とともにすくい上げて籠の中へ投げ入れます。あまり人気のないあいの日に、ここで井戸をのぞいていますとタイムスリップして何とも云えない昔が来ます。
◆九月二十二日、秋分の日四天王寺の客殿、大広間には有栖川の宮の額と、正面床の間には、鳥居扁額の実物大の拓本がかかっています。ここで舞台講の役員に依る経木書が行われています。午後三時頃から奥の院の五智光院で彼岸法要が菅長さんはじめ一山の僧侶によって行なわれ、多数の舞台講々員とその家族が集まって先祖の霊安かれと手を合わせて祈念しました。
(平成8年9月25日)